※この記事は2024年5月に神戸新聞へ掲載されたものです。
2025年は、1995年に発生した阪神・淡路大震災から30年を迎える年であるのと同時に、同じく兵庫県を襲った地震災害である北但大震災から100年の年でもあります。
北但大震災とは1925(大正14)年5月23日午前11時ごろに起きた、円山川河口の深さ約50キロメートルを震源とするマグニチュード6・8、震度6(当時最大)の北但馬地震による震災です。昼食の準備の時間帯であったことから火を使っていた家が多く、各所で火災が発生して4カ所で大火となり、多くの家屋を焼きました。大火が発生した場所は、被災当時は別々の自治体でしたが、現在はいずれも豊岡市に位置しています。
私の研究室では建築・都市・集落の歴史を研究しています。建物や集落・都市空間は、地域の歴史や文化を現在に最もよく伝えてくれるものの一つです。北但大震災を歴史的に研究し、現在や未来の地域を考えるときに興味深いことがあります。それは同じ地震によって破壊され、兵庫県主導の下で災害復興事業が行われたにもかかわらず、それぞれの場所で多様な地域空間がつくり出され、現在まで魅力的な建物やインフラが継承されている点です。
災害は自然現象ではなく社会現象であるとよく言われます。同じ規模の地震が起きても、それに関わる人間社会の性質によって、建物や都市空間の壊れ方、再生の仕方は異なることになります。
豊岡では震災以前からの都市計画が災害復興でさらに強く推進され、旧市街と豊岡駅をつなぐ大開通りの中心に、公共施設を集めたシビックセンターを整備しました。建設費に補助金を出すことで、大通り沿いに鉄筋コンクリート造りの洋風長屋(防火建築帯)を建設し、近代的な町並みを整備していきました。
城崎でも同様に鉄筋コンクリート造りの防火建築帯が計画されましたが、温泉街の風情が損なわれると地元が反対しました。多くが木造で再建されつつも、一の湯など一部の外湯や公共建築を不燃化し、まちの真ん中を流れる河川の護岸と橋を整備することで、現在ある城崎温泉の風景の基盤をつくりました。
港町の津居山では、以前から懸案であった港湾の整備と関連して大々的な埋め立てが行われ、整然としたグリッド状(格子状)の町割りをしました。そこに、地域特有の木造の町屋のような家屋を密集させて建ち並べました。農村の飯谷では基盤整備は行われなかったものの、軒裏を土で覆うなど、防災性能を上げる家屋改修が行われました。
私の研究室では2022年春から、北但大震災後に建設された復興建築について、まちづくりの中で継承する取り組みを続けている「豊岡まち塾」や、豊岡市立歴史博物館と連携しています。北但大震災に関わる地域空間の形成過程を明らかにする研究を進め、未来へとつなげる活動を続けています。